Netflixの大ヒットドラマ『First Love 初恋』の脚本・監督を務めた寒竹ゆりが、「Mercedes-Benz C-Class」をテーマに短編小説を書き下ろし!朗読は、芸人でありながらマルチに活躍するヒコロヒーでお贈りする、女優・安曇ちとせと照明アシスタント・成瀬きく乃を巡る物語──。
※本短編小説は、音声コンテンツとしてもお楽しみいただけます。
words: Yuri Kanchiku
narration: hiccorohee
visual: Asa Hiramatsu
二〇一五年初夏
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その頃の安曇(あずみ)ちとせは、まだ安曇ちとせではなく、何度目かの事務所移籍と改名を経た後の赤座クルミという名で活動しており ── その後もハマチがブリになるように、いくつかの名前を変遷することになるのだが ── まもなく二十九歳を迎え、若さもこれといったキャリアもない彼女は名前と同様に迷走していた。彼女はしかし、無名の女優だった。
成瀬きく乃はCMや広告の照明会社obscurité (オプスキュリテ)入社二年目の照明アシスタントだった。好きなバンドに会えるかも、という極めて不純な動機により専門学校に入り、特に興味があるわけではないが照明クラスを選んだ。同期のほとんどがカメラマン志望だったため、競争率の低いライティングの道へ進めば就職にありつけるのではという実によこしまな想いからだった。果たしてきく乃の思惑通り、折からの人材不足と社長が同郷という棚ぼたに与って、業界では老舗と云われる照明会社の内定に漕ぎ着けた。だが、社名に “闇” の意を冠するそこはまさに、暗黒世界の入り江だった。
広告や映画を問わず、一般的に照明部はどの部署よりも早く撮影現場に入り、一番最後まで撤収に追われる。早朝から時に夜中(テッペン)過ぎまで、ひたすら怒鳴られながら機材運びとフィルター整理に明け暮れ、帰宅してバッテリーを充電しながらバッテリー切れする毎日。今日撮っていた商品がチョコレートだったか鼻炎薬だったかすら思い出せない。ゾンビの自主映画だけを七十八本監督し続けた学生時代からの恋人は、就職して自動販売機メーカーの堅実な営業マンとなった。最後に会ったのは付き合って三年目の誕生日、その日も疲れ切っていて、あろうことかもらった花束をシンクに投げ置いたまま寝た。翌朝、花は色を失くし、恋人は姿を消していた。
その日、ちとせはアイドル女優・筒井ひかりのスタンドインとして輸入自動車の広告撮影の現場にいた。スタンドインとは、撮影前にライティングやカメラアングルをテストするためのタレントの謂わば代役であり、通常は同じくらいの背格好の新人が起用される。商品をPRすることが目的のコマーシャルのライティングは、とりわけ綿密に行われる。この日、ちとせの気持ちを重くせしめていたのは、筒井ひかりが八つ下の事務所の後輩だったからでも、生理二日目だったからでもなく(それもなくはないが)、これから目の当たりにするであろう残酷な現実を容易に想像できるからであった。二人は公称のプロフィール上は全く同じ身長、体重、靴のサイズでありながら、ラマとアルパカくらい違った。筒井ひかりの体つきは華奢ながら、丸みを帯びた胸とくびれたウエストが曲線的なプロポーションを構築していた。形の良い頭蓋骨と、愛らしい小顔は人々に好意的な印象を与えた。ひいおじいさんだかおばあさんだかの北欧の血を引く肌は、 二十歳という若さも相まって、光線を撥ね返すような冴え冴えとした白さと透き通った肌理を纏っていた。それに比べてちとせは肩幅が広く、関節や筋肉が際立っていた。どちらかと云えば肌は浅黒く、かつてのハリも失われつつあった。
現場に現れた純粋農耕民族型の、若くもないスタンドインを見た照明技師の、その一瞬の顔の曇りをちとせは見逃さなかった。「全然違うじゃねぇか」とは大人なので決して言わないが、そこにいた誰もが思っただろう。そりゃそうだ。こっちだって承知している。何時間もかけて拳一個単位の微妙な塩梅で配置された狙いのライトも、本人が入ればどうせやり直しになる。さすがに自分ではなかろうと、前の晩、担当マネージャーに訴えもしたが、最近では監督業も手掛ける気鋭のフォトグラファーが撮ると聞き、あっさり翻意した。そもそも仕事を選んでいる場合ではないのだ。ちとせはコンプレックスのがっしりとした肩を心ばかりすぼめ、申し訳ないような、半ば開き直るような気持ちでカメラの前に立った。
昔から撮影の世界では“車ができればなんでもできる”と云われている。車のボディは鏡のように周囲を映り込ませるため、反射をコントロールする高度なライティング技術を要する。同時に、車に乗る生身の人間にも神経を配らねばならない。若手の助手は二重(にじゅう)と呼ばれる高所の足場で機材を設置し、チーフの指示に従ってライトを調整する。照明は重くて熱くて過酷だが、この場所はスタジオ全体を俯瞰で見渡せる特等席でもある。きく乃が照射面の光量を絞ったり光線を収縮させるたびに、そのうつくしく流れるような立体造形が生き物のように浮かび上がる。前年、フルモデルチェンジされたというその車──Mercedes-Benz C-Class──の精悍なシェイプは、停まっているにもかかわらず、今にも走り出しそうだった。灯体を動かしながら、きく乃は「なんてハンサムなクルマだろう」と思う。ボンネットの艶を強調するタッチライトをほんのわずかに上方へ振ると、流麗に隆起したパワードームのレリーフが立ち現れる。そのハイライト付近に軽く手を添え、かれこれ四十分近く同じ体勢でポージングしている女性の姿がふと目に留まる。
一見すると地味でつまらなそうな印象を与えるが、その女性の健康的な明褐色の肌と、意志の強そうな太い三角眉、黒く大きな瞳──涙の成分が人よりちょっと多いのかもしれない──は抗し難い魅力だった。首からちいさな胸にかけての直線的でアグレッシブなフレーム感は彼女だけのものだ。鼻筋の通った端正な横顔はどこか、ロングノーズのあの車に似ている。そう云えば今朝、一番初めに現場に入ったきく乃の、そのすぐ後にやって来たのが彼女だった。きく乃が配線の準備なんかをする傍ら、常夜灯だけのまだ薄暗いスタジオの片隅でひとりへたくそなポージング練習をしていた。懸命に笑顔を作っているのに、何かに腹を立てているみたいで、それでいて泣いているようにも見える。彼女の魅力の根源はその矛盾と不可解さにあるのかもしれない。そして彼女は決定的に、何かが足りてなかった。思わず手を止めてちとせの姿に見入るきく乃。その矢先、四方から「おい!キクノ!」という怒声が飛んだ。
「スタンドインさん、あと半歩上手(かみて)」何度経験しても堪えるのは、誰からも名前を呼んでもらえないことだ。大勢の視線が注がれているのに、誰の目にも見えていない感覚。
「あの、スイマセン」後方から近付いてきた進行係の声に、ちとせは目線だけで返事をする。「筒井さん、なんか前の現場押しちゃってるみたいで、入りが二時間遅れるらしいんスけど、スタンドインさん、ケツって大丈夫スか?」
「え」という、強めの抗議を含んだ声が口から漏れる。全然大丈夫ではない。あと、名前呼べ。今月は突発的なオーディションが続き、コンビニのバイトを休みがちだった。今日、十九時からのシフトに遅れると間違いなくクビになり、必然的に来月の部屋代が払えなくなる。思わず進行係へ体を向けると、「あー!スタンドインさん、動かないで!」という声が四方から飛んだ。ちとせに与えられた選択肢などなかった。
先ほどから、重そうな機材を担いだ小柄な女性がちとせの視界を出たり入ったりしている。よく見ればきれいな顔立ちをしているのにまったく化粧っ気がなく、半世紀は鏡を見てないかのような長い前髪を、ピンチと呼ばれる撮影備品の洗濯バサミで雑に留めていた。乾燥機から出したのをそのまま着たと思しき、“Stick it to the man(権力者に反抗)”と書かれたしわくちゃのTシャツ──意味をわかって着ているかは定かではない──の袖を肩まで捲し上げ、汗だくで走り回るその姿を目だけで追うちとせ。誰からも関心を持たれていないという点において、ふたりは共通していた。そして、全人類で今もっとも罵倒されているであろうその女性は、“キクノ”と呼ばれていた。
結局、三時間ほど遅刻して笑顔で登場した筒井ひかりは、滞りなく撮影を終えると、次の歌番組の収録へ向けて嵐のように去って行った。クライアントや代理店社員の姿がなくなると、定常光が落とされ、スタッフは一斉に撤収を開始する。さながら祭りのあとのごとく、きらびやかだったスタジオはだだっ広いただの四角い箱に戻る。きく乃が二重に吊り下げたライトを片付けていると、眼下に先ほどのスタンドインの女性が目に入った。彼女がまだその場に留まり、手持ち無沙汰でウロウロしているのは、フォトグラファーに自分をアピールする機会を窺っているのだろう。それは撮影現場でたびたび見かける、さして珍しくない光景だった。だが彼女は、どうしてかそのあと一歩が踏み出せないようだった。プレビューを終えたフォトグラファーが、ジャケットを手に取り立ち去ろうとしている。その瞬間、ちとせを一筋のライトが照らした────。
To be Continued
後編は2025年8月29日公開予定
C-Class Sedan
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C-Class Stationwagon
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寒竹ゆり
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ヒコロヒー
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平松麻
https://www.asahiramatsu.com/
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※ 車両の仕様・装備は、撮影時点の仕様であり、日本仕様と異なる場合があります。